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生い立ち

わたしたちが提供するのは「家」ではなく
「幸せがあふれる生活空間」

泉家の長男として誕生
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1988年1月21日。 滋賀県彦根市の病院にて、2歳上の長女に次ぐ、泉家の長男として誕生。

仕事熱心で厳しい父と自由闊達で優しい母は、共働きのなか私たち2人を一生懸命に育ててくれました。

特に父は、私が生まれた直後に独立し、「株式会社イズミホーム」のもととなる「株式会社イズミ」を設立したので、ものすごく忙しかったと思います。

小さなころの私は、やんちゃで活発な友達が集まるグループの中におり、いじられるタイプでした。

私が小学1年生の時。 マラソン大会があり、母親から「10番以内に入ったら、ゲームを買ってあげる」と言われました。 結果は、奮闘むなしく40番。 ビリから数えたほうが、早かったです。

しかし、どうしても「ドンキーコング」のカセットが欲しかった私は「40番」と書かれた番号札の裏に、自分で「10番」と書いてゲームを買ってもらいました。 私は、母親をだましたのです。

喜ぶ母の顔を見ながら、私は「ゲームを手にした満足感」よりも「嘘をついた罪悪感」にさいなまれていました。 すると数日後、同じやんちゃグループにいた友達の1人が、私の両親に「了樹郎くんは40番だったでしょ」と話してしまったのです。

その時、厳しかった父が「嘘をついてはいけない。誠実な人でいなさい」と涙ながらに叱ってくれたことは、今でも強く覚えています。

この出来事を通して、私は父から「嘘をつかない。誠実に生きること」の大切さを学びました。

「芸人」か「ギタリスト」を志した高校3年生

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時は流れ、高校3年生の夏。 卒業後の進路を考える時期でした。 高校時代の私は、思春期の真っ盛り。 厳格な父への反発心から、やんちゃな友達とタバコを吸ったり、ゲームコーナーでたむろしたりと、遊び呆けていました。

もちろん、学業の成績は最悪。 大学受験に興味はなく、私の頭の中は「お笑い芸人」か「ギタリスト」の2択でした。

まずは「お笑い芸人」になるため、吉本興業に入ろうと親友を誘いましたが「興味ないよ」と門前払い。 次は「ギタリスト」になるため、どうしたらいいのかと考え、東京へ行くことにしました。

そこにあったのは「東京へ行けば、何かが変わるかもしれない」という、あまりにも無根拠な算段。

当時の未熟さゆえ、地元で友達や周囲の大人から「お前のとこの父ちゃんは、社長で金持ちなんだろ?」とお坊ちゃん扱いされ続ける環境から逃げ出したいという気持ちも、あったのかもしれません。

しかし「ギタリストになりたい」という理由で、両親が私を東京に行かせてくれるはずがありません。

そこで、ひとまず父が勧めてくれた東京の大学を受験して、入学することにしました。 しかし、特に目的もなく入った大学で、有意義な時間を過ごせるはずがありません。

入学して早々「ここで4年間を過ごすのは無駄だ」と思い、両親には内緒で仮面浪人をすることにしました。

目指すは「音楽系の大学」。 授業には全く出ず、大学の図書館で違う大学に入るための勉強をしていました。

父親に初めて「自分の正直な気持ち」を伝える

仮面浪人を始めてから、4ヶ月。 なんと在籍していた大学のシステムにより、成績表が実家に送られてしまったのです。 もちろん全科目、最低評価。

突然、私の携帯電話に1本の電話がかかってきました。 画面に表示された発信者名は「泉 藤博」。 私の父の名前です。

「りょうじろうーーーーー!!!!!この成績表はどういうことだ!!!!!」 あまりにも大きな声で、一瞬、自分の耳がどこかへ飛んでいってしまったかと錯覚しました。

私が仮面浪人をしていたことを打ち明けると、 「すぐ彦根に帰ってこい!そして働け!お前みたいな奴に学ぶ資格はない!!!」 と言われ、10分以上にわたる怒号のマシンガンを、静かに受け止め続けました。

父が一息ついた後、私は人生で初めて、涙ながらに自分の正直な気持ちを伝えたのです。

「スポーツも勉強も習い事も、今まで何もかもが中途半端やった。今度こそ、真面目に大学受験にチャレンジしたい。何でもいいから、1つのことに打ち込みたいんや!」

私が話し続けている間、父はずっと黙ってその言葉を聞いていました。
そして一言。 「勝手にしろ」

毎日10時間以上の猛勉強を積み重ねた仮面浪人時代
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父との電話からの2〜3日、両親から見放されてしまった私は、家の前にあった「セミの抜け殻」と同じような状態になっていました。

「これから自分は、どうすればいいのか…」 ふとポストを見ると、1通の手紙が届いていました。 送り主は、なんと「泉 藤博」。

「はじめて了樹郎くんが自分の意見を言ってくれた。 将来に対していろいろな不安を抱えているのもわかる。 自分で決めて言ってくれたことがうれしかった。 お前がそうやって決めたのなら頑張れ。 応援する。

因果応報という言葉があるんだ。 悪い行いをしていれば、悪い友達や悪い縁しか呼んでこないし、 結果的に自分の人生は好転しないけど、 良い思いでよい行いをしていれば、よい友達やよい師、伴侶、良い出会いに恵まれて 人生はよくなる。
だから、自分が努力したいというのを初めて聞いてうれしかった。 どこまでも応援する。頑張れ!」

涙が止まりませんでした。 生まれてこの方、18年間も注ぎ続けてくれていた両親からの「無償の愛」に、私はようやく気づくことができたのです。

他人のせいばかりにしてきた、自分の今までの考え方を深く反省しました。 それと同時に、これからは自分にできる最大限の努力をしようと決意したのです。

そこから毎日、朝の9時から18時まで、大学の図書館にてぶっ通しで勉強。 図書館が閉まった後は、そのままマクドナルドへ行き、再び24時まで勉強。

見据える進学先は「音楽系の大学」から「4年制大学の経済学部」へと変わっていました。 将来、父の経営する「株式会社イズミ」を継ぐためです。

誰よりも泥臭い日々を積み重ねた、新卒1年目
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無事に新たな大学の経済学部へ入学し、卒業することのできた私は、東京の不動産会社に就職。

将来「イズミ」へ入社した際にすぐ力になれるよう、まずは外の世界で経験を積もうと考えました。

入社した会社で配属されたのは「マンション販売の営業」。 胸躍らせながら始めた新卒1年目でしたが、最初の半年は全く結果が出なかったです。

しかし、お昼ご飯を食べる時間も惜しんで駅前でチラシを配り、少しでも興味を持っていただいたお客様がいれば、どれだけ遠くても足を運びました。 会社の誰よりも「努力」を積み重ねている自負はあったのです。

先輩からも「入社してすぐにラッキーで成果が出た新卒の中には、勘違いして努力しなくなる奴もいる。最初に苦労すれば、その積み重ねが将来に繋がるんだ」と励まし続けてもらいました。

すると、入社して半年を過ぎた頃から急に成果が出始め、最終的には新卒10人の中でトップの営業成績を残すことができたのです。

大学受験の時に、図書館とマクドナルドで培った「やり切る力」が、ここで活きました。

最終的に、新卒で入った会社には1年在籍。 その後、別の不動産会社へ転職しました。 今度は「売買仲介の営業」として、経験を積むためです。

「お客様以上にお客様のことを考える」の原点

私が社会人の駆け出しだった2010年代の前半は「リーマンショック」と「東日本大震災」の影響で、住宅市場はものすごく厳しい状況でした。

しかし、厳しい時代だったからこそ「住宅ローンの支払い」や「地震への対策」など、お客様それぞれが抱えていらっしゃる念いに、真摯に向き合うことの大切を学びました。

その中でも印象に残っているのは「50代のご夫婦と2人のお子様」という、とある4人家族のお客様との経験です。

当時、東京都品川区の大井町駅のすぐ近くに、JRの大きな社宅がありました。 しかし、老朽化のために取り壊しになることが決まり、私はその社宅へ、住み替えのご提案をするために訪問していました。

そこで出会ったのが、冒頭で申し上げた4人暮らしのご家族。 住み替えをしなければならないことは決まっていたものの、結婚してからの30年以上、一度も社宅を出たことがなかったのです。 そのため「家賃」をお支払いになったご経験もありません。

「古い物件だと地震で倒壊しないだろうか」や「年齢的に借入額を多くはしたくないけれど、果たしてそれで家が買えるのか」そして「住み慣れた大井町駅の近くの物件はあるのか」など、数多くの不安を抱えていらっしゃいました。

「会社のオフィス」からご家族が住んでいる「社宅」まで、毎週のように自転車で通う日々。 丁寧に丁寧に、お客様の「不安」や「ご要望」に関するヒアリングを重ねました。

新しい物件情報が出てお客様に合いそうだなと思えば、その日のうちに「チラシ」や「お電話」などでお伝えすることも、欠かさなかったです。

ただ、やはり住み替えへの不安からか、どんな物件をご紹介しようとも「う〜ん・・・」という険しい表情。
するとある日、何度も何度もヒアリングを重ねるなかで「この物件は絶対にお客様にピッタリだ!」と感じる物件があり、早速ご紹介しました。

案の定「う〜ん、そうだねえ・・・」というあまり乗り気ではない反応だったのですが「この物件は絶対にお客様にピッタリです!私が保証いたします!」と言って、物件まで足を運んでいただくことにしたのです。

その結果、実際に物件をご覧になられるなかで「この家すごくいいね!」と気に入ってくださり、ご購入いただくことができました。

お引き渡しの日。 お客様より「泉さんじゃなかったら、家を買えなかった。本当にありがとう」という言葉とともに「花束」と「お手紙」をいただいたのです。

お客様にそこまで感謝していただけた感動で、私は涙が止まりませんでした。
この経験が「お客様以上にお客様のことを考える」という、イズミホームが掲げるモットーの原点となりました。

「了樹郎、もうそろそろ滋賀へ戻ってこないか」

2社目の不動産会社で働き始めて、2年が経った頃。 突然、私の携帯電話に1本の電話がかかってきました。
画面に表示された発信者名は「泉 藤博」。

「了樹郎、もうそろそろ滋賀へ戻ってこないか」という内容でした。 父からの誘いは、嬉しかったです。
しかし同時に、いま働いている不動産会社にとてもお世話になっており「もう少し働きたいな」とい思いもありました。

そこで、当時働いていた会社の社長に「1年後に会社を辞めて、滋賀へ戻ろうと思います。恩返しとして、この会社の個人の年間売上記録を更新してから辞めます」と伝えました。

結果的に、その目標は8ヶ月で達成。
こうして私は、東京でたくさんの「知識」と「経験」を積ませていただき、地元・彦根へと戻りました。

「住宅」に感じた、大きな責任感
イズミグループの総合力
イズミグループの総合力

私が「株式会社イズミ」に入社した当時、会社全体の方針として住宅建築の部門である「イズミホーム」には、まだそれほど注力していませんでした。

「株式会社イズミ」は、私の父が10坪しかない小さな事務所で「7区画の分譲地開発」という事業からスタートした、不動産会社です。

1991年の創業から、総区画数は約30年で「1,000区画」までへと拡大。
その過程で「住宅建築」の領域を強化して「総合不動産会社」としての体制を整えるため、グループ会社として2011年に設立されたのが「イズミホーム」でした。

そして、私が「イズミホーム」の代表取締役に就任したのは、お客様とのある「トラブル」がきっかけだったのです。

それは、私が滋賀へ戻ってきて「株式会社イズミ」で働いていた頃。

「イズミホーム」にて、住宅の建築を発注してくださったお客様がいらっしゃいました。 ものすごく穏やかなご夫婦で、打ち合わせも終始、和やかに進んでいたことを覚えています。

しかし無事に設計図も完成し、工事も終盤に差しかかった頃、突如お客様より「この箇所が希望と違う」というご指摘をいただきました。

急いで確認を進めた結果、お客様や社内の営業担当、建築士、そして施工業者さんなど複数の関係者が多くのやり取りをするなかで、情報のすれ違いが起こってしまっていたのです。

そのお客様に関して、私自身は最初のタイミングで少し携わっていただけだったのですが、会社の役員としてお宅へ謝罪の訪問。

奥様の泣かれていた顔は、今でも脳裏に焼き付いています。 あれだけ楽しそうな笑みを浮かべられていたお客様を、ちょっとしたきっかけで起きた1つのすれ違いで、突如ものすごく悲しい表情にさせてしまう怖さ。
結果的に、そのお客様には「割引」という形でご納得いただきました。

しかし、その方々にとってこれからの生活基盤となる「家」という場所に、我々は「お金」では替えられない大きな「悲しみ」を残してしまった事実に、変わりはありません。

その瞬間、私のなかで「家」に対する大きな責任感が芽生えました。

お客様が大きな額のお金を払って、長い時間をかけてつくり、そしてそこから一生住み続ける「家」という存在の重要性。

また「分譲地開発」から「住宅建築」へと事業領域を拡充していくことは、「安心とやすらぎの生活空間を提供する」という「株式会社イズミ」の理念の実現に直結します。

そう思った翌日、私は社長室にいました。
「イズミホームを自分に任せてほしい」と、父に直談判するためです。

父から問われたのは「本当に覚悟はあるのか?」ということ。
「経営すること」や、お客様にとって一生に一度の大きな買い物である「家」という事業に携わることの責任の大きさを、静かにそしてゆっくりと説かれました。 一つひとつの言葉が、ものすごく重かったです。

それを踏まえた私の返答は「ぜひ、自分にやらせてください」。
父からは一言「頼んだ」と言われました。
こうして私は「株式会社イズミホーム」の代表取締役へと就任したのです。

「イズミホーム」にて、数々の大改革施策を実行

「イズミホーム」の代表に就任した私が、最初に着手したのは「建築コストの可視化と見直し」。

それまでは、お客様ごとに毎回、施工業者さんに見積もりを依頼する必要があったり、その金額の中身が不透明になってしまっていたりする課題がありました。

そこで「全国の施工業者さんの料金」を徹底的にリサーチ。
全国の「平均単価」を調査して、我々が依頼している業者さんの料金がそれよりも高い場合は「コストを見直していただけないですか?今後我々はより大きな会社になって、大型の発注をさせていただくという形で、恩返しいたします」という交渉をしました。

こうした地道な調査や交渉を粘り強く続けた結果、お客様のご希望内容に対してすぐに見積もり金額をお出しして、スムーズに打ち合わせを進められたり、より「リーズナブルで高品質な」住宅を、ご提供したりできるようになりました。

また、住宅建築の際に多くのお客様が不安に思われる「住宅ローン」に関して、より多くの方々のお役に立てればと思い「お金」をテーマにしたセミナーも、定期的に開催。

私自らが登壇して「どうすれば資金という観点で、家づくりを成功できるのか?」といったお話などをしています。

これらの行動は全て「どうすればお客様が幸せな生活を手に入れられるか」を「お客様以上に考える」なかで、始めたものです。

そうして少しずつお客様からの信頼を積み重ねた結果、私が代表に就任してからの3年間で、まだまだ道半ばですが、着工棟数は2倍以上となりました。

「お客様の幸せな生活空間」を提供するために
イズミグループの総合力
イズミグループの総合力

「イズミホーム」を通じて日々お客様と接するなかで、一番やりがいを感じる瞬間は、お引き渡しの際に、お客様からの「笑顔」と「ありがとうございます」の一言をいただいた時。

それらは「建物に対して」だけではなく「私たちがお客様の幸せを念い寄りそった過程」や「夢の実現のお手伝い」に対しても、いただいていると考えています。

その「笑顔」と「ありがとうございますの一言」で、私たちの全ての努力が報われます。

振り返ってみれば、私の人生は常に「どれだけ相手に誠実に向き合えるか。寄り添えるか」の重要性を、再確認し続ける出来事の連続でした。

「お客様以上にお客様のことを考える」という「イズミホーム」のモットーは、これだけ変化の激しい時代においても、ずっと変わらない重要な姿勢であると確信しています。

「安心とやすらぎのあふれる、幸せな生活空間」を提供するため、これからも「イズミホーム」は真摯にお客様と向き合い続けてまいります。

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